「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」を読んで、当たり前のことを疑う

今回は岩波新書の赤版の紹介です。

今年になって親書を読み漁ると決めてから、適当にネットや書店のランキングから売れている本やタイトルが面白そうな本を手当たり次第に購入しているが、今回紹介する「多数決を疑う 社会的選択理論とは何か」は、その中で手に取った一冊。今まで疑う事もしてなかった、当たり前のように肯定されていた、文明が存在する以前から存在していても不思議ではない、いわば不文律のような多数決を疑うというタイトルに惹かれ、どのようなアプローチで書かれているのかが気になったというのが、本書を購入した理由である。

本著の中でまず、著者は2001年のブッシュ対ゴアの大統領選を例に出す。

二〇〇〇年のアメリカ大統領選挙を例に挙げよう。当初の世論調査では、民主党の候補ゴアが共和党の候補ブッシュに勝っていた。だが途中で泡沫候補のラルフ・ネーダーが立候補を表明、最終的に支持層が重なるゴアの票を喰い、ブッシュが漁夫の利を得て当選することとなった。多数決は「票の割れ」にひどく弱いわけだ。

その後の911テロ対応、イラク空爆などのブッシュの功績(?)を見ても、この選挙がどれだけ重要なものであり、どれだけ歴史をつくる選挙であったかは、一目瞭然だと思う。

著者はこの事例を出すことにより、多数決の欠陥を指摘し、多数決以外の選択肢を徐々に小出しにしていくことで、タイトルの「多数決を疑う」に読者を引き込んでいく。

では、多数決に代わってどんな方法があるかというと、実に様々な方法がある。結論を言ってしまうと、単純なルールにより誰が見ても全員の意思決定が明らかな、つまり多数決に代わるような方法は、ない。ルールを難しくすることによって、意思決定の正確さを増すかと言ったらそうではないし、簡単だからいいと言う訳でもない。この本では色々な方法が紹介されているが、それは本質ではないので、ここでは全て割愛する。

この「多数決を疑う」を通して著者が言いたかったことは何か。社会契約論の中でルソーが書いてある一文が、それであると私は感じる。

人民集会に法案がかけられたとき、人民に問われているのは、彼らがそれを認めるか否かではない。問われているのはその法案が、人民の意志である一般意志に合致するか否かである。

(ルソー「社会契約論」第四編二章)

この本を著した坂井豊貴はまだ40歳と言うから、その博識さにおどろいた。今後が楽しみである。

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